Webにおける情報の伝わり方の、時間的な隔たり。

時間的な隔たりがそこにはある。その隔たりは、後からみれば無いに等しいものだ。だが、情報が経過しようとするその前後に、強く意識させるものが明白に存在している。

ある記事を目にした。記事そのものは訳文である。Web上で紹介される訳文は翻訳者が力んでいない限り、短くても1日以上過去の文章のものであると、私は読む前に意識する。その際、元の記事がいつ公開されたものかは確認しない。何故ならば、読み物として楽しむ上では時間的要素を事前に意識しなくてもよい、と考えているからだ。もしそれが歴史的な背景を持つものであっても、大抵は行間に用意されているものだ。注意深くならなければいけないのは、御上の公布や信書の受け取り、新聞記事くらいではないか。

さて、この記事とはまた別で、3日後にある記事が公開された。中身はほぼ同じ。違うのは、それがいつ公開されたのか。

ある記事が出たら、人はそれに群がり思うようにものを口にする。だが、その記事がどれだけの人に読まれたかで、Webの様相は変わってくる。知らない人は知らない人で記事を書き、そしてまた人が群がり思うように口にする。

記事を公開するメディアの大きさによって様相が変わる。もし有名なメディアが一目散にネタにしたら、情報の時間的な隔たりはなかっただろう。情報の伝わりやすさは、昨今のソーシャルブームに則れば伝える人の数に起因するようだが、実際のところは「その発信者の存在をどれだけの人が既に見つけていたか」に最大の原因がある。今日の新聞に書かれた情報は、あなたが今日までに読んでいようがいなかろうが、明日には知っていて当たり前になる。ソーシャルメディアは、そこにある情報を誰がいついつ言及するかによって発生するのだ、これは覚えておかねばならない。

時間的な隔たりは言語という壁によっても生じる。1週間前に英語で公開された文書が、1週間後の今日になって日本語で公開される。情報格差は、人が知っているか否かという側面ばかり強調されるが、実のところ、情報の流通路をどれだけ押さえているかに主眼がある。

後からみれば無いに等しい。終わり良ければすべて良し、だ。時間的な隔たりがあろうとも、結局は人に伝わる。だが、その隔たりが、どれだけ我々に影響するのかを考えれば、ここに大きな勝機があると気付くだろう。

とはいうものの、人がそれに魅力を感じるかどうかは別だ。情報に、時間に翻弄されて、自分を見失う危険も潜んでいる。

事後の世界に生きているうちは、平穏無事でいられる。