脱観念としてのケータイ小説。前篇

ケータイ小説に対するweb界隈の評価は一般的にあまりよいものではない。この評価基準となるものは、諸君らが既に読書するところの(現在刊行されている文芸誌や近代文学のあらゆる)小説のそれであることは言うまでもないだろう。そして、諸君らがケータイ小説に対する意見には、目立つもので「稚拙な表現」「決まり切った展開」などがある。


まず、小説というものは調べるところによると、作者の想像力によって構想しまたは事実を脚色する叙事文学とのことだ。ここにおいてケータイ小説は小説の枠内にあるということが分かる。次に、ケータイ小説は歴代小説*1とは違い、極めて陳腐な表現を用い、また登場する人物や事象を読者が想像に耐えうるまでに簡略化していることがわかっている。そこで、我々はケータイ小説が言語的装飾を伴わない、事象を事象として描写し感情的に躍起しない小説であることに気づく。この表現法によって、ただの出来事としてなんの飾りたてもしない、実況見分みたいなものを感じることができるだろう。


このとき諸君らはケータイ小説に先のような評価を下すが、一方で私は、ケータイ小説は言語のもつ観念をことごとく排除して唯物化に成功した、他に類を見ない究極の小説だととらえている。


近現代における人間の思考は常に言語を伴うものであった。そのため人間は自分たちの持てる限りの語彙で表現に尽くそうとしてきた。だがそのような行動は、発言一つ一つに人間が責任を持たねばならない状況を生み、あげあしを取り合い一定の思想主義観点から査定を行う、言語が人間を支配する世界を結果として生んでしまった。


だがしかし、ケータイ小説は積極的に言語のもつ観念を取り払うことで言語から解放されている。ケータイ小説は文字による観念によらない希少な文学としてこの世に誕生した。
言語にあふれかえる社会に生きる我々にとって、ケータイ小説はつまらないものかもしれないが、しかしそこには脱観点・脱言語としての挑戦的な態度があるということを知る必要がある。

*1:ここでは諸君らが評価するところの小説全般をさすことにする