只管私見を述べることにする。
まずはコメント付き非公式RTを常用している者の態様について考える。
replyであれmensitonであれ、既に用意されている返信方法を採らず非公式RTに代える者たちは、一体何を意図しているのか。
ひとつは明確な返信を得られるからであろう。in_reply_toによって、どの発言に対しての返信であるかは分かるものだが、彼らは、in_reply_toであるよりも直接文章を抜き出してそれに答える方が分かりやすい、と考えているのではないだろうか。返信があったことは専用のタブで確認できるが、その時点ではどの発言への返信かは分からない。返信メールの、あの引用部分と同じ意義を持たせているのだろう。
ひとつは発言者・返信者間で終わらずに、following・follower諸氏に対してそのやり取りを公開することにあるだろう。「あの人は今、誰となんの話をしているのか」を知りたいという欲求を、非公式RTという形で解消しているのではないだろうか。『公共交通機関では電話は控えましょう』と同じ、掟のようなものがそこにあると私は踏んだ。
もしかしたら、チャットのごとく閉鎖的なやりとりで使っているだけなのかもしれない。しかし、そうであるにせよ何故非公式RTを使うのかという疑問に対して答えを導きにくい。
以上のような態様を思い浮かべると、ある共通点が浮かび上がる。すなわち、たとえ文章が途切れようが何度もreplyが飛んでこようが、一連の会話がそこにあるということだ。およそ彼らにとって、ひとつに繋がる会話のやり取りが重要なのであって、それを分かりやすくする手段が非公式RTであったというだけの話ではないだろうか。
ただ単に、ある発言を抜き出して非公式RTを以てコメントする者がいる。
Twitterの、ある特定の発言に言及する方法はreplyでもmentionでも相応しくない。非公式RTであればどの発言に対しての言及かは一目瞭然である。
もし、非公式RTを避けたいのであれば、その発言のURLを貼付けるだけでいいだろう。相手に対して何ら指摘することがないのであれば、むしろそうすべきだ。この場合の非公式RTは、専ら政治的意味合いを持っていると私は考えている。
どこそこの有名人が非公式RTを好んで使う理由を推測するのは難くない。
有名人がreplyで返信するということは、一対一のやり取りがそこに生じるということを意味する。つまり発言者に直接声を掛ける状況と重なる。
相手のことを詳しく知らないであろう有名人としては、誰それと親しいなどと周りに騒がれては困るし、「あの人にはreplyで答えたが私にはreplyではなかった」などと非難されてはたまったものではない。
そこで、非公式RTで返信することは相手の発言を読んだ上で答えていることを公的に明示し、また、やり取りは公開の場で行われていることを暗示している。講演会を思い浮かべれば理解しやすいだろう。演台の上から質問を拾い上げ、演台の上で質問を復唱し返答する。これと同じことがTwitterでも行われている。
ここでの非公式RTは、発言が公的か私的かを判別するための手段になっている。
さて、コメントせず、ただ発言を広める意図で非公式RTを使う者は、非公式RTをどのように考えているのだろうか。
私はこの非公式RTについてまだ深く考えたことはない。単純に広める意図しか凡そ見いだせないので、余計な解釈は書かず、この考察を終えることにする。