記事を書くということについての顧み。

記事を書く、というとここではブログの記事のことなのだけど、この記事という語をたまにエントリと表記してしまうことがある。なぜエントリと表記するのかは、おそらく過去に利用したサービスの影響なのだろうが、さあどうだったか。

文章を書くとき、あまり推敲しない癖がある。というのも、頭の中に浮かぶ文字をそのまま書いていく作業ただそれだけなのだが、その文字が口に出されたような錯覚を受けその錯覚をもって文章を書くという、似非口述筆記をしている。そのため、私の文体は読み物としては口に出すと自然な形になるが、書き物としては違和感があるつくりになっている。

この書き方は非常に楽で、ただ口で話すように文字を打てば文章が出来てしまうから、そしてそれは会話として捉えると聞きやすくなっているから、推敲するまでもないと書き終わった後に決着してしまう。これが悪い癖で、誤字脱字や説明され切れていない部分を見逃しやすい。
だが、本当に推敲しないかといえばそうでもない。書き終えた後あるいはその途中で、記事全体を確認することが多々ある。だがその確認は、記事が読みやすいかという一点に集中していることが多く、推敲とはほど遠いものだ。

このような文章打ちのため、題の決め方は簡潔である。すなわち、20文字あたりで内容の全てを要約してしまえば、結論を先に述べてしまえば、それでよいという思考が働き、そのまま書き出してしまえばいいので、このような題を戴いている。
この癖のために、題中に句読点がある。

似非口述筆記はあまり得をしないことが多い。なぜなら、たいてい感情任せで書いているからだ。後々冷静になって読み返したときの恥ずかしさといったら、味わうものではない。
だからといえど、この書き方を気に入っているので、直ぐには変えようとは思わないし、そもそも書き方は状況に応じきちんと分けているので、ここではこのままである。